おにはうち、ふくもうち
February 4, 2024
ファンタジーを開く。児童文学のなかには、大人になる過程で蓋をしてきた大切な何かを呼び覚ます力を持った作品がある。あるいは発見する、もしくは言葉に置き換えることはなくても無意識の領域でその蓋が開かれ、何かに繋がる喜びがある、そんな気がする。知人の勧めで読んでみた『ゲド戦記‐影との戦い‐』この作品は、僕の心に繋がる作品であった。ファンタジーの世界を歩く、現実の世界がちょっと違った見え方となって立ち上がってくる。芥川が『藪の中』で描いたように、現実は実に多層であり多面的な世界。ゲド戦記に描かれたファンタジーを主人公と共に歩き、くぐり抜けてきたことにより、少なくとも現実を眺める新しい地点を僕はその物語から持ち帰ってくることになる。それはいったいどんな場所なのか、その視座に立つことでどのような感じ方をするようになったのか、ル・グウイン作『ゲド戦記‐影との戦い』を振り返ってみる。
この物語はアースシーという架空の世界で展開される魔法使いの物語である。主人公のハイタカは幼い頃に母を失うが、生まれ持った特異な魔法を扱える能力を授かった者として成長する。傲慢さと嫉妬心やプライドの高さといったある意味欠点とも言える性質を併せ持つ少年として登場してくる。その欠点は様々な人と出会ううちに成長へと導く起爆剤にもなるのだが。師匠のオジオンや学院の長老たちの言う「均衡」の大切さや、それを大切に扱う心持ちのような言説に対して強く反発心を抱きながらも修業に励み、魔法の術を獲得していく。全ては自分の能力を拡大し誇示するために。彼の能力の高さは自信となり、その生まれ持つ根源的な傲慢さもどんどん力を増していく。同時に自分にはない礼節や大人としての行為が自然と振る舞える仲間に対して劣等感を抱き、いつも苛立っている。その象徴的な存在としてヒスイという先輩が描かれる。彼はハイタカとは生まれも育ちも違っていて、いわば上流階級の息子として登場してくる。学院の先輩で生まれ持つ能力はハイタカが上だが、常にハイタカの一歩先の能力を獲得している。ハイタカは学院に来た当初から彼への嫉妬と湧き出る敵対心を持ち続けることになる。そして自分の強さの証明、自己顕示欲のために掟を破り、決して使ってはならない魔法を使ってしまう。
死者を呼び起こしたハイタカは世界の「均衡」を崩してしまう。学院の大長老は自らの命と引き換えにその均衡を再び取り戻すことに成功する。奇跡的に破滅的な結果を食い止めることが出来た。しかし失ったものも大きかった。ハイタカは死の淵を彷徨い、戻ってきた時には多くの力とともにその傲慢な心も失い、自らの人生を悩みながらも生きていくこととなる。
この物語のクライマックスでは、副題に‐影との戦い‐とあるように、主人公ハイタカは自分を取り込もうと迫ってくるかたちのない影と対決するシーンがある。追い立てる影から逃げるハイタカはその過程の中で様々な人々と出会い、影に対して逃げるのではなく迎え撃つ覚悟を持つようになる。「オジオン様、私は狩りに出かけます」そう言い残して師匠の元を飛び立っていく。すると物語はある変化をもたらす。影はそのかたちを顕然させ主人公の周辺に現れるようになってくるのだ。漠然とした不安や恐怖がかたちとなり、手に触れることのできる存在となり始める。そして最後の壮絶な場面、海上でその影とついに対峙することになる。カタチがなくその不穏の象徴であった影は、父となりそしてあのヒスイとなり、これまでに出会った人物へと姿を現しながらハイタカにどんどん近づいてくる。最後は「人間とも化け物ともつかぬ」恐ろしい顔となる。そして二人はついに向き合う。ハイタカは影の真の名を呼ぶ。「ゲド」。それは自分の真の名だった。対決し排斥するのではなく、両手を差し出し自らのうちにそれを抱きしめた。「光と闇とは出会い、溶けあって、ひとつになった」影は自分自身だったのだ。彼はそれを受け入れた瞬間、これまでの傷は癒え、「全きひとつ」となり、そして自由になることが出来た。
あけましておめでとうございます。遅くなりましたが本年もあめそこ保育園をよろしくお願いします。昨日、2月2日の保育園は節分行事でした。日本中の保育園で仮想の鬼が登場し子ども達を心底震え上がらせたことでしょう。あめそこほいくえんには今年、鬼はやって来ませんでした。本当の行事の意味を考えたいということから、鬼さんは急遽引っ込んでもらいました。その行事本来の意味を考え、向かうべき方向を直前に訂正し、実践してくれた職員のみんなに感謝しています。ありがとう。
社会学者の宮台真司が言うように「異界」の存在をありありと感じることは、この現実を充実して生きていくために必要なことである。人類が定住するようになり、法の世界、正しさのうえだけで生きていくにはかなりのしんどさが伴う。生きる力を呼び覚ます装置として「異界」は我々の周辺に存在する。宮台の言う「異界」はお話の世界などではなく、現実の話だ。想像力を働かせば僕たちはその「異界」に行き、戻ってくることができる。鬼は存在する。形而上学的な現象は妄想でもなければ現実としてそこに在る。節分行事に登場する偽りの仮想パッケージ鬼、その存在に子ども達は「畏敬の念」を抱くことは決してない。育まれるものがあるとすれば、現象を言語化して整理できない発達の子にとっては恐怖のトラウマでしかないし、発達の進んだちょっと賢い子であれば「鬼ってあんな程度なのね」という冷めた態度だけである。(最近流行りの冷笑系は、保育時代から育ち始めているのかもしれない)目に見えないものの存在を感じるとき、「畏敬の念」は発動する。人間は自然を分析し、変更可能な対象物として取り扱うことによって尊さを失い「異界」は消え、同時に「畏敬の心」をも捨て去ってしまった。そして、決まりごとで運用される窮屈な世界だけが残った。
わらべうたは自然の感性を呼び覚ます。「畏敬の心」を発動させ、忘れていた「異界」への通路を開く。そのようなあめそこ保育園の取り組みに変装鬼は必要ないというのが僕の考えです。なぜなら「異界」への通路を塞ぐことになりかねないから。 そして自分の心の弱い部分にちゃんと向き合うこと。抱きしめること。これはハイタカが示したように重要な行為です。影はある意味=鬼です。「保育園の節分に鬼が必要である」という各園さんの声に耳を傾けていると、そこで重要視されているのは、「恐怖を乗り越えてたくましく強くなってほしい」というイノセントな意見が共通しています。みなさん「意義がある」と高らかに言う。そして自己の内にいる鬼を取り出し(メソメソ鬼とか食いしんぼう鬼とか話を聞かない鬼etc)排斥する。それは、「自分らしさ」とか「自己実現」とか「本当の自分」とかキャリア教育によって方向付けられた定型のように思えます。そんな枠組みで教育を続けていくと、人は偏狭な個人へとますます強化されていく。結果、柔軟性がなくなり心は折れやすくなる。
影や鬼を排斥することで、「乗り越えた」ということにはなりせん。再び同質の影や鬼に悩まされることになるからです。必ずそうなります。大事なことは排斥ではなく受容。ハイタカのように影を見つめ、深く向き合い、勇気を持って抱きしめることが出来たときに人は新しくなれる。つまりは成熟することに開かれていく。きっとそうなのではないでしょうか。そのような問題提起を結びに、新年の挨拶とさせてもらいます。2024年もどうぞよろしくお願いします。