さようなら。そして、ようこそ。

April 5, 2024



   本日もご苦労さまです。日本の保育園は忙しい場所。それはきっと確かだ。保育者は皆、うんうんと首が折れるくらい同意するだろう。われわれは、やるべきことの多さと日々向き合い保育する。頑張っている。バタバタとしている。「たいへんたいへん」がこだまする。忙しさはやがて生活や思考の余白を侵食し埋め尽くす。余裕は奪われ、新しさを生み出す創造の泉は枯れていく。毎日のルーティンをこなすことが日常となり、喜びが忙しさの影に潜む。・・・それはこれまでの話。

   これからのことを語ろう。今までの保育文化はそうであったのかもしれない。そういうものとして、諦め、受け入れ、筋が違う種類の情熱を発揮させていたのではあるまいか。でもわれわれには知恵がある。「保育」を「暮らし」と捉え直した瞬間からその営みは少しずつ変化を見せる。なぜなら「暮らし」には知恵がなくてはならないから。これまでの保育には「暮らし」とかけ離れた「過剰さ」があったように思う。熱狂は「考える」行為を奪う。過剰さを削ぎ落とし、「遊ぶこと」「食べること」「寝ること」を中心に据えた暮らしの保育を取り戻す。みんなでがんばろ「エイエイオー!」とシュプレヒコールし、拳を突き上げる必要もない。そして忙しい保育園を過去のものにする必要がある。「忙しい」から「のんびり」した保育園へ。「それはムリっしょ」と日本中から冷笑されるかもしれない。でも、あめそこ保育園はのんびりとすることにする。保育を脱構築する。そのために考えること、実践することを続けたい。

   ゴーン。行事をやり遂げたある日、先生たちは「余韻」が欲しいと願う。余韻を子ども達と一緒に楽しみたいのにそれは叶えることができない。なぜか。そこにも忙しさが原因としてわれわれの前に立ちふさがる。余韻とはお寺の鐘の音が残響として自分の心に響くこと。鐘はもちろん比喩であり、鐘の音を子ども達の声と置き換えても良い。子ども達の声が残響として自分の内で響くためには余裕がなくてはならない。ユリイカ!となにかに気づき発見する喜びにも、余裕のある状態で脳がボケーっとしている余白がなくてはならない。知恵が生まれるその空白を、われわれは意図的に用意する必要があるのだ。みんなの知性を総動員させて。

   暮らしの中から知恵が湧き出る。そのような保育園にどうすれば近づけるのか。どうすれば「忙しい」で完結する世界から抜け出すことができるのか。残念ながら僕はその答えを知らない。余白を生み出す環境は、大人一人ひとりの主体的行為により創られていくものだから。ひとつ確かなことは、これまでの保育ではそれが叶うことはなかったということ。担任制、担当制では実現不可能と断定してもよい。それは、積み重なった保育の歴史が証明している。でもこれからは違う。みんなとなら新しい保育文化をコツコツと耕していける。チームで連動する保育。「三人寄れば文殊の知恵」と言うではないか。あめそこには約30人の大人がいる。「文殊の知恵も」10倍なのです。きっと何かが動き出す。

   確かに、日本の保育士配置基準は最低である。だからといってムリムリ、ゆとりの保育なんてありえナイナイと断定し、思考停止する必要はない。制度によって自分の感受性までも方向づけられるのは窮屈に思う。抵抗しよう。どうにかしたいと考えよう。対象や課題と深く交わることで、希望という名のひらめきが到来するのを待とう。

   見守る保育・藤森メソッドの藤森先生が言うように、一人ひとりが役割をまっとうし、人として為すべきことを自然に振るまい、行為する。そしてチームとしての協同性を発揮する保育。一人ですべてを背負っていた保育から、みんなで取り組む保育へ。そのような状態が実現すれば、その環境は、私たちが願う余韻を楽しめる保育園と同義なのではないだろうか。隣の大人に委ね、子ども達の力に任せる。それが出来たとき、私は空を見上げ、スーッと大きく息を吸うことになる。そして落ち着きと穏やかさを取り戻す。余裕が生まれ客観的になれる。ふと新しいアイディアが生まれる。そして子ども達のなかに帰っていく。ひらめきをみなと共有する。うれしい反応に自分の心が躍動する。楽しい。その環は決して夢物語ではない。僕はそう信じる。

   仮説を立て、まだ体験したことのない世界に開かれていく。あめそこ保育園に集う職員とその過程を経験していく。余韻を生み出すのはわれわれなのだ。そのために考えなくてはいけないのは、一日の流れに安定したリズムを生み出すこと。デイリーと職員の動きを再構築することは絶対的に必要な条件となるだろう。職員の動きとしてのローテーション。それは余裕を生み出す大切な鍵となる。それは、チームが機能する協同システムでなければならない。つまりは、個人の役割が有機的につながり合うものであるということ。言い換えると個人の役割で完結し、他者と交わることがなければ、これまでの担任制担当制と何も変わらない。知恵と賢さがなくてはその創造的なシステムを生み出すことは不可能なのだ。そして、それを生み出すのは他の誰かではなくわれわれひとりひとりだ。現場の自治力、豊かな環境を創造するのはあなたたちしかいない。させられたものからは発見する喜びは生まれない。受動から能動へ。子ども達に豊かであって欲しいと願う時、主体的な行為の先に喜びが待っていることをわたしたち保育・教育関係者はよく知っている。なにごとかを為す、そのための主体はこの私である。このことの事実は、改めて再認識することが重要です。私はなにごとかを成し遂げたい。はじまりはそこから動き出す。そうでなければ新しい何かは常に閉じられたままなのです。知恵を開き創造性に満ちた作品を生み出していく、その過程を楽しむのは私たちだ。

   主体的な行為とはなにか。それは明るい可能性に向けてとりあえず動き出すことだと僕は思う。意味を理解し、納得し、腑に落ちたら行為する。それでは新しいことの意味を見つけることは絶対に出来ない。例えばマイナス×マイナスがプラスに転じることの意味は、中学生になって始めて習う。しかし、13年ぐらいの人生経験でその理路が腑に落ちることはかなり難しい。とりあえず公式に乗って計算し続ける。そのことによって理解が次第に進んでいく。とにかく解き続ける行為の先に意味と理解が追いついてくるのだ。記号設置問題、体験を通して記号が身体になじむ、頭と身体の理解が実用につながる。

  「意味わかんねーし」と乏しい経験則で、自分が納得できないことにしか動き出せない人は、新しい喜びに辿り着くことはできない。現在、小学校では特に算数など意味から重点的に教えるらしい。一コマの授業で解くのはせいぜい1,2問。大丈夫か学習指導要領と首を傾げたくなる。そんなこんなで「先生意味がわかりません」と堂々と公言し、学ぶことを放棄する子たちが急増しているのではないか。学ぶということの本質を分かっていない大人が、制度設計を誤った結果としての現象なのかもしれない。

   とりあえず行為する。実践を繰り返す。柔軟な心で訂正する。保育園のデイリーとローテーションを推敲する行為の過程で、われわれはついに見つけるのだ。シンプルかつ芸術的な理を。あめそこの保育者たちならきっと素敵な環境をカタチにするだろう。その環境に身を置き、いつしか事後的に振り返ったとき、われわれはきっと余韻に浸った暮らしのなかの保育を発見することになる。「なんだか居心地がいいね」その環境はいつしか叶う。

   そうなったらいいなあ。そしてきっともうすぐだよな。とキーボードを打つ指が勝手に進む。個人の願望が皆の希望となり、のんびりと豊かに過ごせる保育園になれますように。願いを込めて。