個別と協働が交差する場所で

September 3, 2024



 小林秀雄の講演をふと思い返すことがある。あの甲高い声が記憶の向こうから僕に呼びかける。近頃、身体に深く染み渡っている小林の言葉を思い出すことが増えてきた。20代前半、何度も繰り返し聞いたその言葉は、今の僕の考えの中心を支えてくれている。保育園を通してそのことを感じさせられる。考えること、認識すること、見つめること、信ずること。たくさんのことに気付いて「なるほどなあ」と感心する。僕はそういうところでのんびりと現象をみつめ喜び合いながら暮らしたい。保育園はそのような場所でありたい。驚きと発見に満ちるため、みんなと穏やかに過ごすため、考えるという行為を続けたい。

 小林の中心にはいつも本居宣長がいる。江戸時代の国文学者、本居宣長は、これまで難解で誰もが放り投げていた『古事記』を読み、その世界の味わいを共有することを可能にしてくれた。それは本居が古代の人たちの感受性で古事記を体験し、訳したからたからこそ現代に響いたのだと小林は考える。時代も感覚も違う他者との共感と交流がそこにはあった(共感とは本当はすごい能力で、現代の僕たちがよく使う共感は単なる相性の話に過ぎない。今回の主題とは逸れるのでまたいつかじっくりと考えてみたい)。だからこそ、本居は古事記の世界を現代に立ち上げることができたのだと小林秀雄は言う。実に30年もかけて。

 さらに、本居は「考える」という言葉についても考えた人である。「かんがえる」は古代で「かむかう」。詳しく紐解いていくと「か」は接頭語であまり意味がなく「むかう」となる。漢字に置き換えると「身交う」。つまりは、身体を通して対象と深く交わることが「かんがえる」という行為なのだ。現代人の頭の使い方は対象を分析し現象を理解することに比重が強くなっている。小林が言うように、山で出会うひとすくいの水が身体を通して「みず」と認識、実感されるのと、それがH2Oであると理解するのでは「かんがえる」という行為の成り立ちが違う。科学的分析の思考と古の対象と交わる思考、両者をバランスよく使い分ける必要がある。僕たちは普段あまりちゃんと「かんがえ」てないから現象に感情で向き合う。きっと、かんがえることが健康に動き出すと、認識が変わり、感情に振り回されて筋違いに疲れるということも少なくなる。だからこそ僕たちは、保育の現象ひとつひとつについて「かんがえる」ということを続けなくてはいけない。考える、そして訂正する行為を怠ってはいけない。そうしなければ保育という複雑な世界で暮らしていく術を見誤ってしまう。見誤ると、園というガラパゴス島で醸成された独特な感性は独自の進化を遂げる。立ち止まり訂正することを怠れば、より頑なに我々の視点は強化され、毎日沸騰した感情で過ごすことになる。それが続くと保育することが嫌になるし、違う世界を夢見ることになる。今いるこの場所で豊かな夢を見よう。そのために賢くあらねばと常に思う。

 話は変わるようでつながっていくのでお付き合いを。今日考えたいことは、形式という型の可能性とお座敷という閉塞感について。両者の成り立ちの違いである。以下は僕の形式とお座敷についての認識なので普遍的な定義とは違うかもしれない。特にお座敷については、経験上、多少憎しみも込められているかもしれないので、偏った見方となるかもしれないことを先に一言添えておく。そのうえで続けるが、形式とお座敷は似ているようで、やはりどこか違うものである。学校教育・保育の現場は形式の中で運用されるべきで、お座敷の中で展開されてはいけない。僕は強くそう考えている。それは公立の教員を経験し、保育園に身を置く僕の切実なる実感でもある。形式には型があるので、そのなかには枠があるようで、もしかしたら窮屈なイメージを持たれるかもしれない。でも実は逆で、枠を超えた思考や技術が洗練され、自由につながる体験が形式のなかにはある。例えば茶道とかを例に取ると、「けっこうなおてまえで」とか、形式に乗りつつも無限に洗練されていくなにかがあるような予感がある(体験がないのでイメージです)。実感から考えるとなると、楽器演奏も形式のなかでの出来事です。ピアノやギター、ヴァイオリン等、楽器という形による制約はあるけれども、反復から技術は洗練され、そこから導かれる気付きや表現に限界はなく自由へと向かう。保育・教育の現場ではメソッドがある。体系化された方法論のなかで、具体的なことをそれぞれが実践し応用する。そして実情に適応する可能性に満ちた型を磨き上げていくことになる。プロとしての教員や保育者の力量は、洗練された型を構築し、うまくそれを運用できるかどうか、その能力がこれからは求められてくる。

 それではお座敷とはどういった空間か。簡単にイメージしやすく言うと、そこでは決まりきったテンプレートが敷き詰められた世界のこと。簡単にと言われても、すぐにはイメージできないかもしれない。それは僕たち自身がお座敷空間内での教育しか体験してこなかったからである。画一的な空間は定型で展開されるためお座敷になりやすい。「さあみなさん」と先生が多勢に向かって説明する。そこではいつも決まり切ったフレーズで声も大きくなる。今の僕を知る人は、あまり想像できないかもしれないが、教員時代は「さあみなさん」とか言ってたくましく授業をしていました。ハッキリくっきりとした正解を示すのが至上命題で、そこで語られる言葉は音量はあるが、いつかどこかで口にしたことのある精彩の欠いたテンプテーション。そして子どもたちにもそれを無意識に課してしまう。小学校でよく見られる光景は、もっと考えをまとめてから言いなさい、とか。モジモジしている子は後回しの対象となり、おもてに出てくる機会を学校教育で体験することなく過ごすことも稀ではない。教師の側もそうだ。黒板の前で生徒からの質問で哲学的な思索に耽り、言葉に詰まっている教師に僕は出会ったことがない。そういう大人との出会いがあれば、学校ってもっと楽しかっただろうな。僕自身の反省としては、小論文の授業などでは特に、主張・反対・理由・具体例・結論のテクニックを伝授する。ハッキリくっきりとした主張を筋道立てて他者に示すという能力、自分の考えを筋道という枠の中に収めることを善とすることを疑いもなく押し付けていた。書くこと読むこと感じること、自分なりにそう思ったことは、もっともっと自由であってよいはず。さほど「かんがえ」てこなかった自分の反省を、これからの保育に活かしていきたい。「こういうときはこうするべき」を強いられる学校教育。そのような場所で、「今はこうすればいいんでしょ」という受け身的な態度が育まれる。ここでは、そのような場所をとりあえずお座敷空間と定義することにする。

 学校や保育園はお座敷のような空間であってほしくない。たぶんそのように考えている大人がだいぶ増えてきたように感じる。文科省のHPでは、少子化にかかわらず30万人近くの不登校児を毎年量産し(そのなかには病気や積極的不登校児は含まれていません)、自殺者も増えていることが目撃できる。しかも自ら命を断った子たちの6割はその理由が明らかになっていない。つまり、他者に助けてと言えない、死にたいほどの辛さを誰かに打ち明けることもできない子たちがいるということ。それは、自らの力で生き抜くことの過剰な圧力の結果としての現れではないか。みんながこうするときに私にはそうすることができない。こうすれば社会に出て生きていけるはずなのに、わたしにはどうしてもみんなのようにはできない。選択の少ない不自由な空間では考える幅もどんどん狭くなっていく。数字から現実と向き合い、このままではいけないと思う大人たちがいる。だからこそ今、教育の現場が変わろうとしている。「個別最適かつ協働的な学び」の場へと。

 個別最適かつ協働的な学びの空間を、これからの学校関係者は、いちから手探りで創り上げていくこととなる。きっと大変な作業になることだろう。だって我々自身が体験していない、知らない場所を立ち上げていくのだから。でも自分たちの知性を僕らは信じることにしたい。きっとうまくいく。テンプレを多用する声の大きいだけの先生は、自らを変えなければ今後苦しくなる。子どもと一緒に考えること、対象と自分が深く交わり関わりを持つことができる人、させる、ではなく引き出せる人、悩みながら待つ、新しい言葉が紡がれる瞬間をみまもることができる大人。そういう先生が全体のバランスとして多勢になっていく時代になるのではないか。個別最適かつ協働的な教育を本気で実践するのであれば、そうなっていくことは必然である。しかし、それを叶えるためには、教室空間の環境が変わっていく必要がある。これまでの教壇があり、1対多で運用されることを効率的に設計された場所。監獄をイメージさせられるあの無機質な空間、その成り立ちが変わる。そもそもこれまでの学校の教室空間では、お座敷にならざるを得ない実情があったのだ。学校のフォーマットが新しくなっていく。居心地の良い場所で能力は開かれていくのだから。

 就学後の変化と幼児教育の変化も連続性を持ったものとなっている。文科省の資料『今後の幼児教育課程、指導、評価等のあり方に関する有識者検討会』の中間整理案を読むと随所に希望を感じる文言がある。今までの定型文書を超えて、そこには作成した大人の息づかいであり身体性を感じることができる。なによりも主体的な遊びの体験を重視している点や、就学後のあり方として、幼児教育を参照し「小学校においても環境を通した教育を参考に取り入れていくことは有効」との考えなど、今までになく新しい記述だ。これまで、小学校の画一、斉一スタイルを模倣して設計されたほとんどの保育園。「就学までに育ってほしい10の姿」も学校に合わせた保育園側の過剰な解釈で一斉に「させる」保育が多かった。責任感の強い我々保育者は、世間の言うところの「小1プロブレム」が心配になり過剰な反応を示す。「このままでは小学校にいけないね」。保護者も学校に怯える。「うちの子は大丈夫でしょうか」。小学校に入学した子どもたちが学校生活に適応することができない状態が続く小1プロブレム。「はて?」。ちょっと冷静に考えよう。就学後、学校のフォーマットに適応できない子どもたちが異常なのだろうか。特別支援・通級児童数がどんどん増えていく義務教育。外国からはインクルージョンを推進しろと注意される日本。つまりこれ以上「分けるな」ということ。そもそも小学校って、もっと緩やかに発達を支援する場所じゃなかったのか。幼児教育を経てない子さえも包括できるような。そのような場所であったから画一形態も可能であった側面があるように思う。それがいつの間にか競争社会の波に飲まれ、「PDCAサイクルを回せ!」等、新自由主義かつ工業生産的な言葉遣いで教育が語られるようになる。人間の発達を無視した過剰な形式にいつのまにかそうなってしまっている。

 最近の文科省の教育改革の文言を読むと、それらの過剰さの反省を強く感じるができる。つまり、本気で学校は変わろうとしているし、保育にも求めているメッセージがこれまでと違っている。これからの幼児教育では、小学校の先取りとしての形態はやめてもらいたいということの現れだろう。中間整理案を読み込むとそのような背景が浮かび上がってきます。「させる保育」ではもうだめなのだ。主体的な遊びと対話的な活動を経た後に小学校へ行く。就学後、小学校側がそれを引き継ぐ、という視点。それらはこれまでの文言にはなかった。素敵なことである。それでは、我々保育者は何をどうすればいいのか。

 先に述べたように教員が画一的お座敷空間しか体験していないのと同様、保育者もそうなのである。我々はそれ以外の教育空間を身体的に知らない。体験したことがない。個別最適かつ協働的な環境をどのように立ち上げ、主体的な遊びを通した対話的な学びを展開させていけば良いのか。まず、僕たちはそれを「知らない」し、深く「かんがえ」てこなかった、ということを認識することから始めるべきだろう。そして、形式とお座敷の成り立ちの違いを認識したうえで、新しい保育と教育をこしらえていかなくてはいけない。今この空間はお座敷になっていないか。ひとつのメルクマール(指標)として有効なのは、大人の説明が長くなり声が大きいとちょっとあぶないということ。させられていると子どもたちも一斉に「せーの」と声が大きくなる。そして、一日の大半を先生と子ども同士がつながりあう。そのように同期が濃くなると顔色を見合ったり忖度したりと、色濃い関係性が強くなってくる。そうではなく、それぞれがそれぞれの活動に夢中になる。それが保育園の基本的な成り立ちだと僕は思う。そして同期することと協働は違う。個人の意思を脇におき、呼吸を合わせて頭も身体も同時に、ではなく、目的よりもその行為の過程において、それぞれが意思を持ち、一緒に力を合わせて何かを為す楽しさを知る。個別と協働のバランス、我々は互いにそれを注意する必要がある。自分では気が付きにくいことだからこそ、チーム保育が機能することは必須である。体験したことのない新しさに導かれるためには参考となる形式を真似るのが一番である。小学校は「イエナプラン」があり、保育には「みまもる保育(藤森メソッド)」がある。他にもたくさんの形式がある。地域の実情に見合ったオルタナティブを学び、(藤森メソッドはオルタナティブというよりはスタンダードになってきた)換骨奪胎しそこに自らの創造を加えていく、このことの過程を楽しまなくてはいけない。そうでなければこれからの教育保育は、本当に苦しいものになっていく。

 それでは、画一、斉一の何がいけなかったかを少し考えてみたい。お座敷空間で培われる弊害No.1は考える力を奪うということに尽きる。テンプレによる言説は考えることなしに、言葉が口から発音として発声させられていく。例えば、以下のような先生と生徒たちのやり取りはお座敷で展開されるわかりやすい例だ。

 
        先生「いいですかみなさん個性はとっても大事だぞー」 生徒たち「はーい」。

 
 “こういうときはこう答える。” 個性もなく全体の一部と化してしまっているおかしさに、先生も生徒も気が付かない。僕たちはそういった空間で考えるという行為を忘れ去ってきたことを認識しなくてはならない。新しいことを発見し、これはもしかしてと心が開き、何かを語るとき、ハッキリくっきりと明瞭に言葉を紡ぐことはできないはずである。「ちゃんとまとめてからものを言いなさい」。と教師は言う。子どもはそれをまとめテンプレにし報告する。それでは大切な瞬間を逸している。今ここで新しい何かが創造されていくという喜びに出会う機会は消え失せてしまっている。ちゃんとした正しさに筋道を立て、まとめてきた主張を発表し合う空間は、イコールお座敷と言い換えることができる。ネットで論破などという誰が一番正しいかを競うことが流行っているらしい。声が小さくなりハッキリとものが言えず、絶句したり悩んだりすると「はい、ろんぱー」、となる。それでおしまいである。新しい地点に協働で辿り着く創造性はそこにはない。これはお座敷教育で育まれた弊害だと言えるのではないか。再び小林秀雄をおもいだす。大学生に向けて小林は厳しい言葉を投げる。弁論術に情熱を傾けるなんて馬鹿か。それよりも若い人たち、対話しなさい(記憶が曖昧なので正確ではない)。昭和初期から、良識ある大人がディベートのような言論空間で勝ち得る全能感の虚しさに対して警鐘を鳴らしている。馬鹿なのですか、と。そうなのです。対話しましょう。悩みながらたどたどしく言葉をつなげていきましょう。大きな声で報告し合うような、お座敷はまるめてどこかに捨ててしまえ。と、それは言いすぎだということもわかる。行事などで声を揃えて伝えるとか、ありがとうと伝えるとか、必要な場面があることもよく理解している。でも1日の大半がそうであってはいけない。そこでわざわざ同期する必要はないのでは、というように揃える必要もない場面はまだまだあるはず。認識を変える。「はて?」と首を傾げて保育園・学校の当たり前の風景を見直す。バランスの問題だとおもう。これまでの形式2お座敷8の割合を逆にしてみる。そんなことを意識することから新しさが動き出す。

 今、ここでなにかのひらめきがこの子の内側から静かに語られようとしている。このことの神秘性を大人は受け止めすくい上げる。そのような空間を大切にしたい、でも一体どうすりゃいいのか、それを成し遂げることが難しいと感じたら、そのときは本を開こう。先人の知恵を借りよう。形式としてイエナプランのサークル対話を学べばいい。学ぶべき形式は世界のあちこちにある。ない知恵を何年も絞るより、僕らの悩みはだいたい他の誰かが体験しくぐり抜けてくれている。そして実践の文化がある。あめそこ保育園ではサークル対話は形式として上手く機能している部分がある。真似てアレンジしていくこと、それが学ぶことであり、文化に参加していることであり、単なる思いつきではない創造につながる道なのだ。学びを通して変化することを歓迎しよう。当園では、朝の会がちょびっとだけお座敷の方へ向かっていることを個人的には感じている。そもそも80名近くの子と対話はほとんど不可能である。歌を歌ってみんなの存在を意識しあい、仲間と過ごす今日一日を想像する。この「想像」はもっと子どもたちに任せていいのではないか。歌を歌ったあとの時間、お座敷が展開されていないか。先生が一人で多勢を相手にすると必然的にお座敷にならざるをえない。説明は最小限度に。確かに出席チェックが目的のひとつであり時間が足りないのも分かる。代わりにあなたの今の気持ちを伝えてはどうか。「よく来たね、今日も会えて嬉しい、保育園は君たちのための場所、今日もきっといい出会いがあるよ」。先生それぞれのIメッセージで子どもたちを歓待し承認し祝福する。それだけでいいと個人的にはそう思う。子どもを前にしてふつふつと紡がれる言葉は、今ここで出会う奇跡であり、集う人たちにとって大切な時間となるはず。その一回こっきりの空気は、敬意と尊重がその場に息づく契機となる。

 以前ブログでも紹介したが、教師は子どもを歓待し承認して祝福することができればそれだけでいい。そのように思想家の内田樹さんも教師に言祝いでくれている。僕はその言葉が強く心に残っている。あめそこでも広めたい。「歓待し承認して祝福する」ことを。朝のお集まりはその型でいいのではないかな。まあ、その在り方は今後、みんなの意見や考えを持ち寄って変化を楽しめたらいい。保育中に話し合いたいことが生まれたときは、熱があるうちに、集まって話し合えたらいいのではないかな。対話の形式で。千葉県のわこう保育園で見たように話しあう必要があるから今、集まる。歌を歌ってみんなに会えるからうれしくて集合する。「いまここ」を尊重して扱う。保育園では、現在の学校のように学習指導要領に定められた時間を消化するためのお座敷を参考にする必要はない。開かれた気持ちに導かれる環境を工夫するのが我々の仕事です。私たちの環境は「いまこのときはこうだからこうするべき」的な状態になっていないか。いつもお座敷か、形式なのかどうかは点検しあいながら見直す。そして、より洗練された形式へと磨き上げるべく、我々は常に保育環境を訂正し続ける必要がある。

 これからの学校は「個別最適かつ協働的」な学びの場に向かっていく。このことの意味と現象をイメージし、保育環境を再興していく必要がある。子どもたちに「手はおひざ、お口チャック」に象徴されるような行動規範を押し付ける。君たちのためだからと無意識にその力が働く。そのような規律訓練としての空間では、学びの楽しさを知り、自らの力で立ち、自律した学びに向かう事はありえません。「楽しい」を知っているからこそ、他者の楽しさも尊重することができるようになっていく。それが前提にあるからこそシチズンシップ(市民性教育)が機能する。変化は簡単なことではない。子どもたちと自己を信じて環境を創造する、工夫するという遊びは尽きない。我々はアーティストなのだから。そして子どもは有能な学び手ということを忘れてはならない。

 「あんたが教えなければうまくいくんです」。「環境にアクセスできる学びを小学校でも取り入れていく」、「モデルは幼児教育にあるんですよ」。 先日拝聴した上智大学教授、奈須正裕先生の言葉がこだまする。これから小学校は幼児教育をモデルに学びの環境が変わっていく。私たち保育者は、その言葉の意味をよくよく「かんがえ」なくてはいけない。