はみでて、もれて、こぼれて、あふれて、ひろがる場所へ
December 16, 2024
もっともっと保育園には「余白」があっていい。はずだ。たくさんの楽しみやおかしみが、はみでて、もれて、こぼれて、あふれて、ひろがっていく。そのためには余裕、言い換えると抜け道としての余白があるといい。大人の社会は実は結構ゆるゆるです。ゆるゆるだからこそ、最近ではそのゆるーい制度の隙をついて悪いことをする大人が増えてきた。さらにはそのような人の振る舞いがスマートだと喝采される社会になってきているように感じるのは僕だけではないだろう。この傾向は厳罰化の制度設計の構築に繋がり、ゆるゆるな社会はもう残念ながら「きちきち」なものへとなっていくかもしれない。ちゃんとすること、はみださず、もれず、こぼれず、あふれてはいけない場所へ。ますますその傾向が強くなり、法整備も進んでいくいくような気がしてならない。
「ますます」と先に書いた。実はゆるゆるだったのに、それでは話が逆である。どういうことか。これまではお天道さまが僕たちの行動規範となって導いていてくれた歴史がある。40代以上の世代には、なんとなくその感覚が伝わるのではないでしょうか。少年時代、土曜日の夜に始まる「日本昔ばなし」を心待ちにし、毎週楽しみにしていた僕の内には、まさにその感覚がありありと残っている。勧善懲悪、水戸黄門。そして時代はあれよあれよと前に進み、街はキラキラとなり、だんだんと、お天道様や鬼といったファンタジーは住みにくくなっていく。資本主義の絶頂期からバブルが弾け、少しずつ国力が衰退していく。2010年以降くらいから新自由主義が幅を利かせ、その成果かよく分からないが、互いに監視し合う社会が動き出す。他者の振る舞いを見逃さない正義の人が増え(コロナ禍の自粛警察など)その反動なのか、人々はぐったり疲れ切り、合理に導かれるスマートな生き方こそがかっこいいとなり(ここは想像)、今日では、最近での兵庫県知事選挙を例に見ても推察できるが、善くなきことさえも称賛されるようになってきている(ような気がする)。ものすごいスピード感における変化だ。法律に触れることがなければ、常識的には「悪い」と見えるような振る舞いも「はみでて、もれて、こぼれて、あふれて、ひろがる」ことが良しとされる。事実よりも物語が支持される。「本当はこうでした」的なお話に大衆は飛びつき、歴史は修正される。そして、多分だけど、みなさん、ちゃんとそれが作り話であり物語であることを知っている(知らないほど能天気ではないはず)。そしてみんなの真実が形成されていく。奇抜なおもしろさが事実や常識を超える。お天道様の力がなくなってしまったいま、社会の秩序を守るため、法制度は厳しくなっていくのかもしれない。ますます息が詰まりそうだ。気持ちがとんと沈んでしまう。「もれてあふれて」ほしいのは、常識的に「善きこと」だけであって欲しい。しかし、前提としてのコモンセンスが崩れてきたいま、考え方としての視点や枠組みを改めることが必要なのかもしれない。
同時に希望もある。昨年観たロウ・イエ監督の映画『サタデー・フィクション』、社会がどんなに自由のきかない場所であっても、いや、そんな環境だからこそ輝く生き方もある、ということを発見する。軍国主義的であり社会主義的な閉塞感も、もしかしたら逆に「自由」を自らの手で獲得することができやすい制度なのかもしれないなと。いやそれにしてもね、コートに拳銃を忍ばせ、愛する人を守り抜くタフな現実をうまく想像できないけど。
だからこそではないが、保育と教育の現場は、性悪説に依拠する発想で運営されてはいけないと思うのです。「だからこそ」とだいぶ飛躍したけどつなげます。園はいたるところに正しさによる「ダメ」が溢れていては「ダメ」(笑)と僕は考えているのです。公共の公園がもはや魅力のない場所となってしまったように「禁止」は「魅力」を奪う。保育園に身を置き、様々な他園の現場を見てきた感想として思うことは、よくわからない「ダメ」を基調としたルールが保育園では無数に運用されているということが事実としてあるということです。子どもは、大人がさせてあげないと育たない、という信念があり、愛のもとで「ダメ」が横行する。正しい「ダメ」と規則で脇を固めることでその子は真っ直ぐ育つ、ということらしい。保育園も公園も一緒。やってはいけないことが増え、自由が不自由になっていく過程がある。保育士が「かべ」と発したら、整然と子ども達がズラーッと並ぶというように。その遂行ぶりが、保育指針にある「育って欲しい姿」の道徳性、規範意識の芽生えにつながり、外に出ても誰にも迷惑をかけることはない、という力が育まれていくらしい。少し頭のネジがゆるいのかきついのかよくわからないけれど。本気でそう信じている人たちがいる。
性善説で設計され、運用されてきたこれまでの日本社会では「自由」を垣間見る、夢見ることができる余白がたくさんあったように想像する。渡辺京二著『逝きし世の面影』の世界観、子ども観から160、70年くらいか、子どもを取り巻く環境は見事に変わってしまった。それはもう180度くらいに。子ども時代にこどもらしく生きることが出来る環境は、大人になった社会をより良いものへと夢見て、その手助けをしていくということに繋がりはしないか。『サタデー・フィクション』に登場するかっこいい大人たちは、世界が秩序と統制でカチンコチンであっても、子ども時代はきっと、こどもらしく夢を見て過ごせていたはず。これは現時点での僕が立てた仮説。楽しさや願い、それらがつながる夢が「はみでて、もれて、こぼれて、あふれ、ひろがる」を経験したことのない人が、規則の中から飛びだして、こぼれおちて、あふれだし、ひろがる豊穣な世界を夢見て、常識的でまっとうな社会の実現に向け、その人らしい行為に踏み出すことはないだろう。
現代は、生まれたときから規則で身動きできなかった子ども達が、ダメの隙間をつく大人となり、それを称賛する多数派になっていやしないか。保育と教育現場は大きく見直さなければいけないところに来ている。異国の人々が観察した明治初期の子育て観を起点とし、360度ぐるっと一廻りして、子ども中心の共同体に戻らなくてはと思う。個人的にはそう考えている。いや違う、もうすでに「こどもまんなか」は政府も声高に叫んでいることでもある。どこまで本気かはわからないけど。願うことは、子どものためにお金を幾らまで使う、ということだけの発想ではないことを祈ります。だってさ、教科書で習った戦後の出生率が高かった時代、今のような手当やサービスがあったわけじゃない。でもきっと希望があったのだろう。だから貧しいけれども育て上げたくなる社会が存在していた、というふうに考えたほうがいい。日曜ドラマ劇場「海に眠るダイヤモンド」を観ていても、そのことがよく分かる。相互扶助で成り立つ温かい地域の自治が必要なのだと思います。沖縄はかろうじてその風土が残っているから出生率がまだ高かったりするのではないでしょうか。地方はどんどん低くなっていくなか、東京都だけが唯一のプラスなのだそうですが、、、。もちろんお金やサービスの向上も大事なことです。でもそれだけではきっと行き詰まりを起こす。僕たちは人生のお客さんではない。受けて与えての循環のなかで人間性を取り戻していくのです。流行りのWell-being.は関係性のなかで発揮されなくてはならない。
話を戻します。規則は自由になるために運用されるもの。僕たちはこの事実を受け入れ、現場を丁寧に制度設計し直す必要があるのではないだろうか。例えば保育園。あそびに関しての制作コーナーでは物作りに没頭したい。それを叶えるためのルールとして、この領域では鬼ごっこやマットなど身体活動は認めないという規則をみんなでこしらえる。同時に身体を思いっきり使う活動は、ちゃんとそれが叶う領域空間を他に用意する、といった大人の側が意識する共有事もある。その空間に叶ったあそびを充分に展開してほしいと願うとき、大人と子どもでつくりあげる約束事があるからこそ、それぞれのあそびが創造的に開かれるのです。または、安心して自由に寝ることが出来るため、このお昼寝時間、隣の小さい子らのためにおにいさんおねえさんは静かにあそぶ、そのための環境構成もちゃんとある。他者のために設計された常識的なルールや規則を体験し、市民的成熟につながっていって欲しい。
常識的なルールに乗り、身を委ねることでWell-being.になる。個人の権利とかではまったくない。個人的に良い状態が他者の幸せにもつながる。その循環が回りだすために、とてもとても大切なことがある。それは保育園にいる大人たち自身が、関わり合い、助け合い、認め合い、喜び合うことを「はみでて、もれて、こぼれて、あふれ」だすことが必要なのです。共生と貢献の精神を基調に園生活を楽しむ。そのことに尽きるのではないか。僕自身で言えば、本気で子ども達に向かって怒るときも(そんな機会は未だにないけど)、鬼の形相で「きみたちそれはいけませんよ!」とか重低音ヴォイスを発生しながらも、声が1オクターブほど裏返る、そしてよく見ると寝グセがぴょんと飛び出し、はみ出て、こぼれている。みたいなことを努力している。そこには「余白」があり、通り抜ける道がある。それを見て子ども達もぷぷっとちょっとおかしくなっちゃう。みたいな。いつ訪れるかわからない、そんなときのために僕は寝グセを毎朝セットしているのです、というのは冗談ですが、その寝グセのようなものをいつも携えておくこと、大人だってもっともっとはみだして、あふれましょう。みたいな、ある種のおおらかさがあっていい。そんな変な人がひとりくらいたっていい。それぞれの個性が調和するためには、大切なことなので繰り返しますが、余白の効く「共通の理念」のもとでそれぞれの行為に責任を持つことが大事になってきます。そんな余裕のある大人たちを見て、子ども達は大きくなった自分の姿と重ねて夢を見るのです。大きくなっても楽しそうだ、と。
子どもの目を真剣に真っ直ぐ見つめ、「こんなことではいけません!」とか言いながら「ブビ―」とおならがもれてあふれて部屋中に響く、そんな風景があったっていい。個人的にはそう思う。もうね、みんな正しさに縛られ、「こうあるべき」と厳しすぎなんです。確かにそれは「正しい」とは思う。でも公園でボール遊びができなくなってしまったように、その「正しさ」は世界を窮屈なものにする。比喩としての「寝グセ」や「おなら」を胸の内ポケットに隠し持ち、はみでて、もれて、こぼれて、あふれて、楽しく保育する。これからはそんな感じがひろがると良い。