あめそこ森の歌を聴こう

April 13, 2026



 目には見えなくて、うまく説明できにくいものがこの世界にはあります。たとえば「磁場」のようなもの。その場所にいると、人や現象、何らかの複雑な関係性、相互作用によって内側から何かが湧き上がってくる。自ずとそうなっていく力にのっかっていくだけ、とそんな場所が存在する。言い換えると、中道態的な営みのなかで体験や言葉がオートマティックに生成されていく。自由であり自在になれる場所があるのです。

 ピュシス(全体としての自然)とソモス(人がつくった社会)そしてロゴス(人為的手段、言語・論理・理性)という概念、考え方があります。この頃は、保育園で過ごす体験のなかで、人為的なロゴスはそれほど多くなくてもいいのでは、と感じるようになってきました。自然(ピュシス)の中に身を置くことで、子どもたちは世界に開かれていく。未規定・未確定を確定させることなく、予定調和のない、あるがままの世界で思いがけない体験が生まれる。「気がついたらついついそうなっていた」という感覚。「ついつい」それをしてあそんでいた。友達と一緒にいた。それを一緒に協働していた、ときに喧嘩もし、いつの間にか仲良くあそんでいる。それは誰かにそうしなさいと指示されたわけでもなく、気がついたら自ずとそうなっていくものです。そのような体験には、どんなに丁寧に組まれたカリキュラムよりも、かけがえのない素晴らしさに導かれる可能性が豊かにあります。人は何が起こるかわからないことにわくわくするものだからです。

 一方で、全体主義を基調とし、すべてが綿密に計画された環境では、条件や比較、効率化といった感覚が生まれ並列が機能し、序列が作用します。定型の予定調和空間で力は奪われ、その世界での行動規範の価値基準は損か得かになりがちです。過剰なシステムによって、本来、唯一無二のかけがえのない存在であるはずの君や僕を忘れてしまいそうになっていく。だからこそ、自然のなかに身を置くことで大切なことを思い起こすことが必要なのです。「思いがけずついつい」良いことをしてしまう循環の社会を取り戻したい。もちろん、「基本的人権」や「子どもの権利」など、ロゴスは文明を支え発展させる大切な手段でもあります。それを画一的効果に狭めて活用してきた結果として、現代社会の息苦しさを生み出してしまったのかもしれません。

 生物学者の福岡伸一は言います。「ピュシスの歌を聴け」と。現代の人はどうしても対象を確定し、判断し回収して理解し、安心したくなってしまうところがあります。それは、人々が不自然で人為的な環境に身を置きすぎてきた結果なのかもしれない。人間関係の狭い暗闇(息苦しさや身動きの取れなさ)にはまり込んでいる大人がたくさんいます。横を見て上を見て下を見て、人の視線ばかりに意識を使いすぎて苦しんでいる。教室から始まるロゴスの力を駆使し拡大した社会(ソモス)のなかで適応し、生きていくためにそれは必要なことなのかもしれない。そして現代の「分断」された社会での、カッコ付き仲間内で安心を得るための生存戦略。しかし、そのように他者との信頼がベースにない社会は、やっぱりおかしい、と言葉にしてみたい。だからこそ、せめて乳幼児期にそのロゴス的過剰を取り入れる必要は全くないと考えます。先ずは説明もいらないと言い切ってみる。(必要なことはもちろん承知で)言葉以前をただただ体験し味わい尽くすこと、それが乳幼児期には大切なことのように思う。

 主体的とか能動的とか自律的とか、私達教育者はそんな言葉を理解したつもりで使い過ぎてきたのかもしれません。なんのための非認知能力か。個人のスキルアップ・キャリア形成のためではない。他者より抜きん出るための力でもない。ピュシスの歌を聴くためのものである。ピュシスの歌が聴こえなくなってしまっては、その回復は難しくなる。だからこそ、小さい頃に自然とふれあい、そのつながりを感じることは重要なことなのです。

 「分断」を煽るような社会が、もうどうしようもないのはしょうがないとして、「ピュシスの歌を聴」こうという構えがあれば、自然とのつながりを感じることができるからこそ、このくだらない現代社会でまともな常識を忘れることなく(分断に参加することなく)、健やかに生きていくことができます。福岡先生の言うところは、そういうことにあるのだと思います。そのためには、自然とのつながりを体験し、その連続性を身体的に知っているということが前提、必要条件になります。

 大人は賢く学ばなければと思う。大人も子どもも中道態的に突き動かされることをもっともっと体験しよう。「自ずとそうなる」という体験を。僕やあなたがお互いを好きになったことは、主体的にそう決めてプログラムし、予定を立て計画的に恋い焦がれたわけではない(はずです)。いつの間にか自動的にステップを踏んで踊っていただけのことです。気がついたらお互いに夢中になっていたのです。アフォーダンス、その感覚を思い出すだけでいい。言葉の生成過程も同じです。書きたいこと話したいことが先にあるわけじゃない。ペンを取り、口を開くことで言葉が自動に紡がれていく。つながっていくことで考えが輪郭を現してくる。そして、今この瞬間に言霊が生成される躍動と感動がある。なにかを言い切った後(書き切った後)、事後的に自分の考えたことに驚き、そんなこと考えていたのかと新鮮な気持ちに出会うことがあります。そうした流れに身を委ねること、それだけで人生は少し豊かなものになるのではないでしょうか。そのためにも、幼児期における自然体験は重要だと感じています。好きだから、今、そうしたいからそれをする。という感覚を大事にすること。流れ(フロー)に身を委ねること。そのことで意味が生まれ世界に開かれていきます。未体験に出会い体験することの尊さを思い出すこと。僕たち教育に携わる大人は、それを大事にしようと話し合うことが大切なのではないでしょうか。その一歩から実践が変わりだすのだと思います。プログラムとかカリキュラム至上を脇において、「今」という過程・プロセスに注目する。これまで安心・安全・便利・快適のために行ってきた画一的教育の不自然さを徹底的に認識する。「喧嘩はいけません」「みんな仲良く」「ごめんね〜、いーよー」等々、そんなアホみたいに不自然な押しつけ(プログラム・システム)ばかりをやってきた事実を見つめ直す。そして、頭と身体を使って子どもの「今」と丁寧に付き合うことから始めてみる。

 あめそこ保育園には、あめそこ森があり里山的な畑も広がっている。園舎の中には人為的な工夫(ロゴス)も散りばめられています。ここまでピュシスの必要性を訴えてきて何なんですが、自然も人為も必要なのが人間世界なのです。「どっちか」ではない。しかし、そのバランスが大切になってくるのだと思います。乳幼児期は自然(ピュシス)と共に生きることが圧倒的優位でいい。そのピュシスとロゴスの往還の中で子どもたちは勝手に好きなようにそれぞれがそれぞれのペースで大きくなって行くのです。自然と一体になる感覚を身体に宿した子どもたちは、損得勘定を超えて他者とつながり合い、友となり、仲間となります。信頼があるからこそ、違いを受け入れて一緒に居られるという当たり前を子どもたちから学ぶこともできるはずです。大人の「分断」ごっこを子どもの自治に持ち込む必要はありません。そんなことやってる場合じゃない。

 風の歌を聴こう。木々の微笑みを受け取ろう。太陽と土の温もりを感じよう。あめそこ森のざわめきと共に過ごす。僕はパソコンを持ってあめそこ森に行く。この場所では「お約束」さえいりません。必要なことは、この場所を敬うこと、ただそれだけです。すると賑やかに「磁場」が立ち上がり、思考や体験がアフォードされる。「ついつい」と勝手に何かが動き出す。

 「共生」とは、相反する者たちがお互いの力を活かしながら共存しているプロセス、というようなことを人類学者、京大総長の山極寿一先生が言っていたのを思い出す。万物の営みの中で反発し合いながらも仲良くあそぶ子どもたちには、共生の道に開かれるしなやかさがすでに宿っています。今が底辺の極みのような現代社会(ソモス)は、これからきっと少しずつ良くなっていくことでしょう。エビデンスはありません。あめそこ森であそぶ子どもたちを眺めていて、そう直観しただけのことなのです。個人的願望かもしれないけれど、それでも確かにそう思えるのです。

2026年度が始まりました。あめそこ保育園の理念である「共生と貢献」について深く考える年にしたいと個人的に思います。どうぞみなさまよろしくお願いします。